忘れられません。私はTAKの転勤でイランに行きました。ちょうどいろいろごたごたがありバーレビ王朝からホメイニ師に代わりイランイスラム共和国が出来上がったころです。着いたころはシャーパーレビの華やかな雰囲気がまだありました。でも日に日に いろいろと法律が変わっていくのです。
突然海水浴も男女分けられ 自宅のプールさえ 男女は別々と・・・・・??そんなことできるはずがないですよね。幸い高い高い塀があったので なるべく静かにプールサイドで宴会をやりました。
えっ! こんなことが・・・と驚くことがたくさんあって とても日本では味わえない経験が山ほどです。
そして1年弱経ったころ 突然イラクが襲ってきて イランイラク戦争の勃発です。イラクの飛行機が来たーーーとなんとも奇妙なサイレンがけたたましくなり 地下室に逃げ込んだり・・・・
イラン人は半数以上が文盲ですからそのサイレンが警報なのか 解除なのかは テレビをつけると色で示されます。それがなんともおかしく感じました。
でもそのうちこのサイレンも政府の脅しでしょうということで こんどは会社も学校も休みとあって毎日 毎日 戦争とは裏腹にのんびりと 我が家に大勢の家族が集まって来ます。 明かりが外に漏れると政府のなんとかにお叱りを受けるので窓ガラスにびっしりと隙間なくアルミホイルと新聞紙をはり 男性軍は4人でするゲーム に時間を費やし 子供たちはプールやらウルトラマンごっこなどで盛り上がっていました。お手伝いさんも豊富ですからもちろん女性軍もおしゃべりに・・・
そしてあそこにフランス製のあれが売っていたとかの情報交換です。
翌日黒い布を被ってオンボロタクシーでバザールに。いろんなことがありました。タクシーはまっすぐにしか行ってくれないので曲がる道に来たら降ろされました。何度も繰り返しているとそのうちタクシーは相乗りですから 可愛い女の子が乗ってくるとおばさんは邪魔になってしまうのでとんでもないところで降ろされたりペルシャ語などとても解りませんから言われるままです。やっとのおもいで家にたどり着いたこともありました。いろいろ異文化を楽しんでおりましたが 国の情勢も怪しくなり帰国になりましたがそのころは空港が閉鎖され 会社がバスをチャーターしてくれました。一人20キロほどの荷物を纏め陸路バスでトルコアンカラへ。灯火管制のもと 真っ暗な道をただひたすら走り続けたのです。途中のレストランも真っ暗でなにやら豆のスープらしきものを食べたのですがあまり覚えていません。でもそれほどまずくなく美味しかったような思いが残っています。砂漠の中を走り 時々おいはぎみたいな集団に会い それでも3日かかってトルコとの国境に着きました。髪の毛は埃で乞食のように固まっています。
トルコとの国境の検問所で宝石やら持ち帰っているじゅうたんで色々ひと悶着あり8時間砂埃の中で待たされお許しが出たときは バスの中全員で抱き合って喜びました。そこにいたトルコ人は昔日本人にお世話になったといってとてもやさしく家にお水と食料を取りに帰って子供たちにたくさんお土産をくださいました。トルコ人そしてその当時の日本人に感謝です。
ホテルに着くや否や言うまでもなく美容院に駆け込見ました。 バスの中はわいわいがやがやピクニック気分。トルコにはいるや市内見物 ショッピング そしてロンドンへ。ロンドンの空港では農協のおじさんおばさんが子供たちから聞いて万歳 万歳でお迎えしていただきました。素敵な素敵な思い出多いイラン脱出ドラマです。
そしてこれが・・・・お伝えしたかったのです。3日3晩バスに乗っているのですから 夕日が沈むそして朝日がのぼります。月の砂漠・・・というイメージしかなかった砂漠の中を私は走っているのです。夜が明け始めた・・・そのとき 砂漠の中に 一人の黒いチャドルを着た女性がらくだと歩いているのです。この緊迫した情勢の中 この女性は何を考えながら歩いているんだろう???
これから先この人どこへいくんだろうか??遊牧民かな・・・?? 子供はいないのかな???
戦争のこと知っているのかな・・・・?といろんなことが頭に浮かびました。私は平和な日本に帰るのよ。この人にも幸せが来るように とっても切ないあの情景 でも朝もやの中のあのシルエット忘れることは出来ません。時々思い出します。彼女もどこかできっと幸せに暮らしていると信じて。
この情景をTAKに説明して歌に詠んでもらいました。 ちょっとニュアンス違うけどなーーーー。
この写真はそのとき撮ったものではありません。女性は歩いていました。